ささやかなガン闘病日記

1999年4月某日

左下腹部に微かな不快感を感じた。
生まれつきお腹が丈夫では無いので整腸剤を飲む、普段はそれで何事も無く終わるはずである。
はずであった。

1999年5月某日


整腸剤を飲むが良くならず、それと合い前後してトイレに通う回数が増える。
以前だと朝自宅を出掛ける前だったのが起床直後も通う様になる。
この日普段から血圧が若干高めの為通院しているホームドクターのT先生に診てもらう。
が、不安が有り症状を切り出せない、父親と長兄を大腸がんで亡くしているので尚更だ。
採血をされながら壁に貼って有る検査キットの表示に目が行き、受付でお金を払う時に思い切って検査キットを申し込む、300円だった。

1999年5月末


検査キットを提出し3日後T先生を訪れると、「陽性反応」と言われ、頭がくらっとする。
目の前で成人病センターへの紹介状を書いて頂く。
2日後大腸スコープで検査が始まる、TV画面で見えるのは有り難いがある意味で自己確認を求められるのか。
S字結腸の処でいきなりコブ状の隆起が見え、我ながらこれは!と思わされる。
更にスコープが進んで横行結腸にも小さなポリープが見つかった。
結果として2個のポリープを発見して貰い、組織を採取されてこの日の検査終了。
家族には正直に話をするが涙ぐまれるのでこちらが泣きたいが泣くわけには行かない。

1999年6月1日


この日は忘れらない日になった。
社内のPOSの入替で社員への説明会があり普通の顔で話を進めるが、昼頃には組織検査結果が判明する日。
昼休みに外へ出てT先生へ電話をすると、落ち着いた声で一方がレベル3、もう一方がレベル4と言われる。
レベル5が決定的値であり、「4はやばいよな、」、などと呟き昼飯を食べる気が全く起こって来なかった。

1999年6月3日・8日


ガンセンターへT先生の紹介状を持って行き再検査を受ける。
問診でも色々聞かれる、背中が痛く無かったですか?と聞かれ、そう言えばず〜と肩甲骨の辺りが疼いていたのを思い出す。
病棟婦長さんより来週入院する日に関して連絡しますと説明を受け帰宅。
8日婦長さんより会社へ連絡があり、11日に入院と言われるが会議の日で有り社内に何も言って居らず、無理を言って14日に延期して頂く。

1999年6月14日〜20日


ガンセンターへ入院、大きなバッグには旅行する服なら良いがパジャマばかり。
すぐに担当の看護婦さんが挨拶に見える、優しいかたで良かった(皆さん優しかったです)。
担当の先生はO部長先生でサブにA先生が担当される。
色々な検査が始まる。 血液・肺活量等、17日にスコープで横行結腸のポリープを切除する。
部長先生より組織検査の結果レベル5との話を落ち着いて聞けた。
18日に先生より手術に当たってのレクチャーがある。
20日体毛を剃り手術前日なのだが看護婦さん達が明るいので不安が無い、不思議。

1999年6月21日


朝、この日担当の看護婦さんTさんが病室で両手を合わせるので、つい思わず「未だ生きてるよ!」と軽口を言うと、「そうじゃないの、手術が上手行く様にお祈りしたの」と言われた。
ストレッチャーに乗り換え手術室へ向かうがここまで来たらまな板の上の鯉の心境、見送る人達にVサインをしながら手術室へ入る。
麻酔の先生と話をしながら処置をされ、口から何かを入れられ「はい! 数字を数えて、1 2」迄しか記憶にない。
手術が始まった、午前9時ごろ。 息苦しさに目を覚ます、覗き込む顔が幾つか見える。
「あ、終わったのか」と思い壁の時計に目をやると午後4時半だった。
痛み止めの麻酔を打たれていることもあってぼう〜としている、酸素マスクをしているのだとかは記憶に有るが他は余り覚えていない。

1999年6月22日〜27日

22日下腹部に挿入されている手術後が化膿していないかとかを見る為のチューブ付近のガーゼの付け替えを先生から受ける。

23日少し廊下を歩く、誠に頼りないが嬉しい。

24日歩行をしようとするが身体が突然硬直し 身動きが取れない、苦しい、ベッドに倒れ込む。
硬膜蓋麻酔が合わないのか(後から分かったのですが)、頻繁に起こる。

25日相変わらず硬直が起こる、苦しい、冷や汗が出る。
午後麻酔が取れる、全く硬直が起こらないので身体を動かし始める。

26日ホームドクターで有るT先生がお見舞いに来て下さる。
一患者の為に頭が下がる。

1999年6月28日〜7月4日


肩がとても凝る。 看護実習に来ていた看護学生さんに毎日揉んでもらっていても中々良くならない。
重湯を少しずつ摂りはじめ、トイレも普通に行ける様になった。
7月1日昼食の後お見舞いの方を話をしていると吐き気を催す、おかしいな、そう言えば夕べ胃の具合が良くなかったと思った、これがつまづきの始まりだった。
検査の結果小腸が癒着していた。
術後硬直で余り歩行が出来なかったのも関係しているのだろうか。

1999年7月5日〜11日


色々な癒着をとるための薬を飲むが中々治らない。
1日に吐いて以来口から水分を少ししか摂取していない。
24時間点滴である。
すごいものだ、空腹感が全く無い。 点滴を付けたまま散歩に病院内を歩き回る、毎食後20分ずつ×3回だ。

1999年7月13日〜19日


癒着を直す薬を飲むが治らない。
焦っても仕方がないが夜寝付けない。
廊下に出てベンチに座り星空を眺める、あ〜あ何時になったら退院できるのだろうか。
もう星を見に行く体力は無くなって来た気がした。
ある夜、寝付けずトイレに行こうと廊下に出ると手術室の方から足音が響いてきた。
ふと見ると私の主治医と、手術室の看護婦さんそして患者さんがストレッチャーで運ばれて来る。
時刻は午前2時半過ぎ、そう言えば夕方看護婦さんに先生に用があると言ったら、今日は食道の手術だから多分遅くなります、明日でないとお話出来ないでしょうと言われたのを思いだした。
手術は午前9時からだから、もう17時間を超えている。
大変ハードだなと思い、朝起きて7時半過ぎにナースステーションを覗くと主治医はもうカルテに目を通していた。
頭が下がるし、凄いと思う。

1999年7月20日〜26日


小腸が動くからと言われて再度硬膜外麻酔をされる、案の定硬直が起こる。 数日続くが癒着は治らない。
とうとう鼻からチューブを挿入される。
緑色したチューブで結構太い、断面は3本のチューブになっているらしい。
スチールと蒸留水ともう一本有って十二指腸から先はワイヤーを使って挿入して行く。
有る程度入った段階で蒸留水を注入する、先が閉じているので先端が風船の様に膨らむ。
それを小腸の蠕動運動で前へ進めていく理屈である。
最初の夜、余りの苦しさに看護婦さんを夜呼んで抜いて欲しいと頼むが、当然断られる。
ねばって再度話しをし、余りのこちらのしつこさにサブの先生がわざわざご自宅から出掛けて来られた。
強い睡眠薬を注射してあげるから今夜は我慢しなさい、どうしても明日苦しかったら抜いてあげるからと諭され我慢する。
丁度扁桃腺が極度に腫れ上がった感覚である。
翌朝余り眠れずに起きたが不思議と不快感が減って来た。 先生から「どう?」と聞かれ「大分慣れました」と言うとにやりと笑われた。

1999年7月27日〜8月1日

毎日チューブがお腹の中へ進んで行くのが自分で分かる、顔の頬のコイル状にして巻いて止めてあるので垂れ下ったチューブが短くなるのである。
それでも検査の結果は余り思わしくない。
それ程進んでいないのである。
これで駄目だったら再手術、先生もそれだけは避けたいと言われていたし、自分もいやだった。
「何か飲むとお腹をこわすもの有ります?」と聞かれ、「冷たいコーヒーと牛乳」と答えると「一日3回飲んで下さい」と言われる。
それを何日か繰返したある日、急にガスが出だしたのである。
それを続けた。
やっとチューブが取れた。

1999年8月2日〜8日


徐々に点滴が少なくなり重湯からお粥と食事らしきものを口に出来た。
散歩も何もなしで出掛けられる。
短パンとTシャツ姿でナースステーションで点滴を散歩の為に一時外して貰う。
病人じゃ無いみたいと笑われる。
もう一息、散歩は相変わらず食後3回、20分間。
6日に主治医より退院の話が有った、嬉しい。
時期は婦長さんと打ち合わせて12日に決める。
こちらでは13日は迎え火を焚くお盆の行事が有るので何となくその日は避けたかった。
この日ホームドクターのT先生ご夫妻がお見舞いに来て下さった。 これで二度目、、、

1999年8月9日〜12日


いよいよ退院の週、お世話になった看護婦さん達、にはシフトの関係やらで会えないかもしれないので、早めに挨拶をしておこう。
この病院は一切の付け届けを受け付けない、お礼は只々頭を下げるのみ。
退院の日に最後の回診が有り先生にお礼を申し上げた。
支払いを済ませて外来に何時も居られる副婦長さんに退院する旨申し上げると心から喜んで下さった。
これからは月に一度の検診を受けに来る。
2000年7月

3泊4日の入院検査を受ける。
CTやらエコー、X線、血液検査。
手術した個所が若干狭いとの事でバルーンを挿入し拡張してもらう。
何事も異常は見られずほっとした。
これからは2ヶ月に一度の検診になる。

2001年5月


下腹部に軽い痛みを覚える。
思わず再発したかと思った。
ガンセンターの検診日には未だ日が有る。
ホームドクターのT先生に相談するとガンセンターのO先生も良く知っているF先生を紹介され、翌日スコープで検査を受ける。
腸がかなり緊張をしているのが自分でも見える。
結果どこも腸は異常が無く神経性だと言われ、ほっとする。

2001年7月


2年目の検診を受ける。
CT・エコー・X線・血液検査全て異常なし。
今度から3ヶ月に一度の検診になる。 未だ安心は出来ない。
退院以来、毎日少しでも免疫力が上がればと思いアガリスクを飲んでいる。
やはり検診を受けに行く度に不安がある。
今更じたばたしても始まらないが、人生を引き算で考える様になってきた。

2001年10月

胃の調子がおかしい。
先生に無理にお願いをして胃カメラを飲む。
自分でも見られるだけに緊張する、処どころ小さな赤い斑点がある。
軽い炎症だと言われる。
検査が終ると胃の調子も戻り始めた。

2002年1月
CT・エコー・X線・血液検査全て異常なし。
検査が終って結果を先生から伺う迄の一週間がとても長い気がする。

2002年7月

3年目の検診が来週の月曜日から一泊である。
どんな検査があり、結果は、、、

2002年7月22日〜23日

10時半より入院、午後胸部CT検査、造影剤が漏れそうになり再注射される、、、
病室は消化器外科懐かしいナースの顔が見えるが、当時担当だった方は手術部に移動されていた。
翌日は前夜21時より絶飲食で腹部エコー・腹部CT・採血と検査があった。
検査はこれで終了。
婦長さんにお礼を言って検査結果の通知を貰う封筒をお渡しする。


2002年7月31日

検査結果が届いていた。
恐る恐る封を切る。
主治医のコメント「特に問題はありませんでした」の文字に安心する。

2003年1月21日〜22日

腹部CT、エコー、胸部CT検査の為入院。
前夜の21時より絶飲食で病棟へ、その後エコー、腹部CTと検査が続きやっと食事にありつく。
病室は二人部屋で同室の方は手術前の胃がんの方でした。
娘さんが居られる博多へ東京より来られての手術だそうです、「頑張って!」
翌日は午後検査があり、午前中は何も無し、しかし術後の方が入室されるとかで同室の方は別の部屋へ移動。
検査呼び出しがあり胸部CTの検査を受ける。
部屋に戻ったが術後の方が居られ、流石にそこで昼食を摂る訳にも行かず、誰もいない食堂へ運んで1人頂く。
そこは「呼吸器と消化器(外科)」の患者さんが利用する場所なのだが、食事にうるさいのが呼吸器の方々。
消化器の方々は何も言わない、、、皆暫く食べていないのだから、、、


2003年1月27日

検査結果が届いていた。
何時もの事ながら恐る恐る封を切る。
主治医のコメントに又安心をする。
次回の検査は4月21日。
きっと今夏は検査入院で大腸スコープで検査があるのだろう、、、

2003年4月21日

今日は血液検査の日。
予約時間は9:30だったが急ぎの外来患者さんが二人居られて11時過ぎまで待たされる。
お二人ともその場で入院を言われた様だ。
ご本人や付き添いで来られた方の顔を見るのがつらい。

2003年4月30日

検査結果が郵送で届いた。
何でもありませんとの主治医のコメント、、、良かった。
次回は7月23日〜25日検査入院。
腹部CT、胸部CT、大腸スコープ。

2003年7月23日〜24日

腹部CT、エコー、胸部CT、大腸スコープの為入院。
相変わらず絶食に近い形で検査が続く。
2泊の予定だったが緊急入院の方が居られ「師長さん」より早く帰宅出来ます?
と言われ二日目の朝病室を出てドクターが患者さんのご家族に説明したりする部屋に移動。
夕方検査終了で退院。

2003年7月28日

検査結果が届いていた。
何時もの事ながら恐る恐る封を切る。
主治医のコメントに又安心をする。
次回の検査は11月17日。

2003年11月17日

今日は血液検査の日。
採血後会社へ。

2003年11月28日

検査結果が届いていた。
何時もの事ながら恐る恐る封を切る。
主治医のコメントに又安心をする。
次回の検査は02月16と23日。

2004年02月16、23日

16日腹部CT、エコー。
23日胸部CT。
主治医のコメントに又安心をする。
次回の検査は05月24日。

2004年05月24日

血液検査の日。
採血後次回の検査日程を主治医と相談する。
08月23、24日の連続で腹部CT、エコー、胸部CTの検査。
08月30日検査結果を聞くことにする。

主治医からこの検査で術後5年目を迎える。
何も問題が無ければ今度からは年一回で良いでしょうと言われる、、、嬉しい。

2004年08月30日

先週の検査結果を主治医からお聞きする。
台風16号接近の日。
主治医の口から何でも無くもう手術したガンは再発の危険が無いと言われる。
後は遺伝・体質から年に一度の検診を予約し、お礼を言って病院を後にする。

もう5年、やっと5年、色んな思いが交錯するが、不安と何時も隣り合わせだった事を
思うと付録の人生を大切に生きて行こうとの思いを強くする。

これでこの闘病記は終わりにしたいと思います。
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